Life is like a garden

Perfect moments can be had, but not preserved, except in memory.

オンライン特別講座「二十年後」を受講して

1月末から3月末にかけて、越前敏弥先生のオンライン特別講座
「二十年後」を受講、ようやく3回分の動画の視聴を終えた。

これまで先生の単発講座(課題なし)はいくつか受講したことがあったが、
提出課題に赤を入れて頂くスタイルは今回が初めてで、大変勉強になった。

自分の立ち位置を確認したいという思いもあったが、想像以上に
厳しい結果となり、あらためて小説を訳す難しさというものを痛感した。
同様の講座開催を考慮し(ネタバレにならぬよう)備忘録として振り返ると…。

3回に分けて提出した課題には「誤訳箇所」と、「誤訳ではないが
改善すべき箇所」に線が引かれるが、3回分あわせて誤訳が5カ所
(うち3カ所は同一単語)、改善が40数カ所。改善すべき点が多い…。

今回見えてきたのは、「視点」を意識することの大切さで、
これは誰目線で書いているのか、この人がこういう言い方をするか、
といった、脚本家もしくは全体を見渡す舞台or映画監督のような
ものの見方で、全体像をとらえなければいけないということ。

翻訳をしていると、つい訳すことに精一杯になってしまい、
一語一句にとらわれがちになるが、常に全体を見渡して、
様々な角度から検証する厳しい「視点」が必要だと痛感した。

今回、「原文通りの訳ですが…」という指摘が散見し、少し前に
勉強会で「原文に遠慮している」と指摘されたことを思い出す。

この文が伝えたいことは何なのか、読者に何をどう伝えるか。
そうしたことにもっと注意を払い、勉強を重ねていかねば。

同業者の方が受講後に投稿されたブログにて、ノンフィクション作品
とフィクション作品の違いについて、「余白を意識するのが文芸翻訳で、
余白をなくす方向に向かうのがノンフィクション翻訳」と書かれていた。

2つの勉強会でフィクションとノンフィクションの両方を訳しているので、
それぞれの違いについてみごとに表している言葉だと思わず深く頷いた。

以前、フィクションの方で「原文があいまいなら訳もあいまいに」訳す
よう教わったが、ノンフィクションの方では「あいまいではいけない」
と教わったことがあった。矛盾するようだがどちらも正しく、例えば
ミステリー作品で、わざと仄めかして書いているのを、訳者が明確に
訳すことであいまいさが失われれば、読者の楽しみを奪うことになり、
逆に、明確な答えを求めるノンフィクションの読者に対して、あいまい
な表現をすれば(たとえ原文があいまいでも)「結局何が言いたいの」
といった不満を与えてしまい、続きを読んでもらえない可能性が高い。

だからどちらも正しい、ということは納得できたものの、
それをうまく言語化できなかったのだが、端的かつ正確に、
「余白」という言葉でフィクションとノンフィクションの
違いが表現されていて、そう!まさに!と嬉しくなった。

いちど、きちんと受講したいと思っていた越前先生の講座。
大変学びが多く今回受講することができて本当に良かった。