以前、柴田元幸先生はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』について、
「できれば高校のときに出会っておくべきだった」と仰られたことがあり、
同書が、限られたある時期に読むべき一冊であることを指摘されていたが、
カミュの『ペスト』こそ、今読むべき一冊であると読み終えて強く感じた。
2年前でも、2年後でも、ここまで話に入り込むことはできなかったはずだ。
この機会を失えば、生きているうちにこれほど共鳴することは恐らくない。
物語は、医師のベルナール・リューが、一匹の鼠の死骸につまづいた
ところから始まる。そこから広がっていく不穏な空気、人々の不安、
一時的な楽観、混乱、都市封鎖による別離、葛藤、不信、諦観......。
無論、時代も宗教も民族も異なるため、違和感を拭えない場面も多いが、
それ以上に驚かされるのは、現在進行形で起きていることとの類似性だ。
「戦争やペストが到来するとき、人間はいつも同じように無防備だった」
「ひとりの死者とは、その人間が死んだところを見ないかぎり、
まったく重みをもたないものだ」
「始まったときにはまだ習慣が失われておらず、終わったときには
習慣がすでに戻っている(中略)人が真実に慣れるのは、つまり、
沈黙に慣れるのは、不幸の最中なのだ」
「この長い別離の時間の果てには、自分たちのものだったあの
親しみ深さをもう想像することができず、いつでも肩に手を置く
ことができた人が自分のそばでどんなふうに生きていたかも思い
だせなくなっていた」
「絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ」
そして、『ペスト』の魅力はその置かれた境遇との共感性にとどまらない。
登場人物の生き様が緻密に描かれ、非常に奥行きのある物語となっている。
ただ死んでいく患者を前になすすべもなく、無力さと虚しさに苛まれるリュー。
ずっと、父親に対する嫌悪を払拭できぬまま生きてきた苦悩を吐露するタルー。
愛する人との予期せぬ別離を嘆くも、次第に気持ちに変化が訪れるランベール。
ペストにより思わぬ恩恵がもたらされ、終息と共に破滅へとつき進むコタール。
彼らを軸として、管理人のミシェル、パヌルー神父、市役所の職員グランらに
ペストは容赦なく襲いかかる。悲しむべきはペストに襲われた者だけではない。
終息を迎えて活気を取り戻すオラン市に佇むリューの心中は察するに余りある。
終わった瞬間からすべては忘れ去られてしまう。だから、書き記す必要がある。
そうして綴られたこの『ペスト』は刊行から74年経った今も読まれ続けている。
そして、2021年を生きる我々もまた、人間の愚かさを嘆きつつも、
「人間のなかには軽蔑すべきものより賞賛すべきもののほうが多い」
という一面に何とか目を向けて本書を次の世代へ繋いでいくのだろう。